グランパの山歩き

             御巣鷹慰霊

1.2001年10月6日(土)

2.目的:慰霊と御巣鷹尾根清掃

3.上信小型バス:東京駅新丸ビル集合

4.地図:昭文社・山と高原地図21西上州

 新丸ビルの周りにはバスが囲んでいた。運転手と見られる男性5人が打ち合わせをしている。小型バスを探す。角に「日本航空」の看板を持った男性がいたので挨拶する。バスの前に女性がいて名簿をチェックしていた。やがてS氏が現われた。かって救難訓練の教官をやり、運航本部に席をおいている。同じように現役最後の記念に応募してきた。大学同級生でもあるAがやってきたので、一緒にバス最後部に座る。

 8時、2人キャンセルしたようで、11人で出発。3連休の初日で関越高速道路は渋滞、首都高速から東村山まで一般道路を走行。国道17号から川越方面に行き、トイレを使うために東村山から高速に入る。嵐山PAでトイレ休憩。本庄児玉で国道462号線に入り十石峠に向かう。下久保ダムの脇を通過。カーブに番号がついていて75まで見つけた。途中、道の駅「万葉の里」でトイレタイム。中里村恐竜センターも近くにあった。国道299号、奥多野花街道を走る。

 12時過ぎ、「慰霊の園」方向に右折、学校の前を通り、バスぎりぎりの道を登っていく。林の中で椎茸栽培をしていた。慰霊の園は公園のように整備されていた。まず塔に行き、焼香をあげて冥福を祈る。

DSC00021.JPG慰霊の園

 後ろの石に520の名前が彫ってあった。家族の名前が一緒に彫られていたり、外国人は左端に彫られていた。黙読しながら「ゴメンナサイ」と黙唱する。玉砂利広場の奥に観音像が幾つか立ち、歌碑が立っていた。年々増えているようで、去年訪れた時と比べてみると広場を仕切る石が置かれていた。入り口の展示室に入る。事故当時の状況、千羽鶴や写経の他、2年前に訪れた山崎豊子の写真や「沈まぬ太陽」が展示されている。波多野パーサーの略歴を書いたものがあった。ボイスレコーダーに残された声が想い出される。

 バスに乗って、登利平の鳥飯を食べる。食後、戻って御巣鷹山に向う。19キロ、川を遡り、幾つかのトンネルを通っていく。事故後、道路脇に植林した木が紅葉していた。

 13時15分、麓に着く。偶々、山行会の人達が荷物を担いで出発するところだった。なかに同僚のF氏がいた。我々は軍手とゴミ袋を持って出かける。砂防ダム建設のための道路工事から一転、樹林帯に入り、カエデやカラマツ、ミズキがあった。足元を見ながら歩く。目立つゴミはないが、煙草の吸い殻を見つけた。

       秋冷の御巣鷹尾根や捨て煙草

「やすらぎ滝」や「みかえり峠」を通っていく。

DSC00039.JPGやすらぎの滝

25分経ったところでベンチがあり、一服したので長袖を脱ぐ。更に登っていくと案内板が立っていた。左手に小屋があり、山行会の人達が荷物を運びあげていた。彼は小屋に泊まる。

DSC00023.JPGDSC00036.JPG

同行者の方に歩いていくと卒塔婆が立ち、祭壇小屋があった。ここを訪ねた人のメッセージが壁に貼ってある。最初、利用された座席の番号かと思った数字の看板は区画整理のためだった。ここがスゲノ沢で、合掌する。

DSC00026.JPGスゲノ沢

5回目のAについて登っていく。途中、水場があり、空のペットボトルに水をいれて手にぶらさげて行く。斜面を登りきったところに昇魂の碑が立っていた。

DSC00035.JPG昇魂之碑

 14時30分、1人1人焼香、合掌して黙祷。1985年8月12日18時57分のことを想い冥福する。

DSC00031.JPGDSC00029.JPG

             昇魂碑静かに添へし菊の花

DSC00030.JPG鎮魂の鐘

 

 脇に遭難者の銘碑が立つ。これは警視庁応援派遣部隊と日航機体回収部隊の有志が去年8月に立てたものだった。尾根の樹林が抉れている風景は今も残っていた。

DSC00027.JPGU字溝

 ここにも小屋が建ち、訪問者の想いを残している。広場の方にはメッセージを架けられるようにしていた。Aに案内され、少し登ったところに黒焦げになった大木の一部が残っていたのを見る。

DSC00032.JPG

 山行会の人達が先ほど運んだ腐食液を持ってやってきた。小屋や卒塔婆を塗っていく。時間も押し迫ってきたので降りる。女性たちは降りるのに慣れていないようで、予定より遅れてきた。先に歩いてスタッフに伝える。

 15時30分、全員揃ったところで出発。すりばち荘で温泉に入る。

       山降りて秋空仰ぐ湯浴みかな

 風呂からあがり、別室に用意されたビールで慰労、弁当を食べる。

 17時30分、バスに乗り込む。

DSC00043.JPG

 鬼石でトイレタイム、更に高速に入って途中、高坂SAに寄っていった他は、関越自動車道の真中のレーンを走行。池袋の芸術劇場脇に着いたのは20時前。すべて用意が出来ていて、登山でもなく、清掃もごく僅か、ひたすら合掌する一日だった。

絶対安全などありえないことで、原発事故が起きたことは記憶に新しい。退職後、登山や旅、ボランティアを続けているが、仕事中に培った安全感覚は残っている。

今や古くなった記録だが、記録して置かなければ記憶に残らないと思い、当時の日記をまとめました。


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